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日本主義による21世紀維新、利益至上主義より和を重んじる日本主義

和と平等の精神をも基とする日本的経営の方が日本では大きな成果をあげており、これこそ日本主義の本流として世界に広めることかできるだろう。お金を儲けることに主眼を置いた利益至上主義よりも終身雇用制により人を大事にして、短期的な利益を求めるのではなく、長期的視点に立って、社員か協力し、助け合う経営こそ一つの世界標準として自信を持って提示することかできるだろう。

チームワークこそ日本の良さと力の源泉であり、日本主義の典型として世界に誇ってもよいであろう。公正より情を重んじる価値観は、原子力発電所の事故や狂牛病への対応に見られるように、安全であると専門家か評価したものでも、国民か安心しなければ認めないという「安全と安心」という二つの異なった概念を日本は育んだ。これも世界で新しい思想であり、人間の感情を重視した文化として自国に受け入れることを歓迎する外国も多いだろう。

リスクの高い株式にだれかれ構わず手を染めさせようとするのではなくて、適正な利子により貯金を魅力的にするなど、健全な銀行業務を活性化させることもまた、各国共通の目標だろう。他人への思いやりや弱者へのいたわりを持てば自ずと平等を志向する。

数十億円の高給をとるアメリカの社長もいるが、そのような大金かあるのなら、日々苦闘し、会社の富を実際に生産している従業員にこそ分配しようとするのか日本主義である。お金儲けの上手い富者は施しをせよという教えは世界でも珍しくなく、富の独り占めは悪しき行為であるとの共通認識を諸国間に広めよう。

弱者のためには国の責任か大きい。自己責任も重要だが、自分だけではどうにもならないことも多い。パート、派遣、請負労働の拡大により、正社員のポストが減らされ、同一労働、同一条件が満たされず、やむを得ず格差に甘んじていなければならぬ若者も多い。

ヨーロッパでは、同一労働、同一賃金の原則か広く認められている。安い労働力提供の道具とされるパート、派遣、請負に対する規制を強め、格差の少な。い社会へ向けた改革に賛同する国が多数派だろう。自由より秩序を重んじるという価値観については、資本の勝手な振る舞いを規制したいと思うのは世界共通だろう。アメリカ発の金融危機の教訓から、金融への規制を強化するのは世界の趨勢となった。

原則自由という方針ではなくて、国は社会全体のために、また弱い個人を守るために必要なものには、規制を加え、強化していく姿勢を堅持することかぜひとも必要であろう。自由に競争させればとめどもなく競争を進める日本人の性格から生ずる行き過ぎを是正するには、たとえば小売店の営業時間の制限などのように国家の規制に頼らざるを得ない部分もあるだろう。

アメリカのように争いをいとわない社会では、悪いことを行う者が市民の激しい批判を受け、市民の攻撃によって抑え込まれるが、争いを好まない日本では不正をたたく市民の力が弱く、悪者が野放しにされやすい。

優しい日本人によって構成される優しい社会では、規制を厳しくしておくことで、不道徳者か暴れ出すのを防ぎ、正直者が馬鹿を見ることかないような公正で公平な社会を守ることができる。国による適正な規制の維持という日本主義は、自由の氾濫に苦しむ多くの国で共感を得るだろう。

数千年の歴史の荒波にもまれて育まれてきた大和の精神とその発揚により、日本は、欧米と異なり、世界でも稀に見るほど優しく住みやすい社会をつくってきた。同時に、科学技術を国家の経済発展の基礎と位置づけることに成功して経済大国を実現し、国民生活の質の向上を大きく図ってきた。豊かで安心して住める生活を国民か享受できるようになったのは、美しき大和の価値観であり、これを守り発展させることこそ、日本の未来の繁栄を保証するものである。

グローバリゼーションという大きな外圧により日本の将来が脅かされるなかでは、日本主義Japanismを世界に主張し、理解を求め、自らも日本主義を貫いていくことが日本の安全と繁栄を維持する、最も確かな道である。そして画期的な新しいものを生み出すという使命を新しい形のエリートか実現できるようになれば、日本主義は盤石となる。

非凡の才能を持つ者が周囲の目に惑わされず、大きなリスクをかけて、アメリカやヨーロッパ流の個人主義に徹し、革命的なものを創造する環境を確立することか望まれる。また、組織内で、苦労して優れた業績をあげ頭角を現した者が、年齢に関係なく抜擢され、組織をぐいぐいと引っ張っていけるようになることを期待したい。

経済優先があまりにも露骨過ぎる

アジアやアフリカに出かけて行けばよい、という若者だもの態度にも疑問を示す。「マニラのスラム住民の立ち退き反対闘争を支援するより、彼らを立ち退かせて港湾を建設しようとする世界銀行(以下、世銀)や西ドイツ企業の計画そのものにストップをかける、つまり根源をたたく方が先決じやないですか」と、援助を必要とするような構造の変革を強調した。

八五年にこの本が出るとたちまち版を重ねて、援助論争が広がった。何しろ、連邦経済協力省でザンビア、パキスタン援助などもてがけ、議員時代にはアンゴラや南アフリカなどとの連帯運動にも関わって南北問題に豊富な経験と広い視野を持つエルラーさんの援助中止論だけに、衝撃力は大きかった。連邦議会で公聴会まで開かれ、援助中止論者も援助改革論者もこぞって政府の援助政策を攻撃した。

というのも、南北問題の教科書ともいわれる『南と北-生存のための戦略 ブラント委員会報告』を出すほど、第三世界の問題に熱心だったブラント首相の社民党政権が保守政権に変わってから、ヒモつき援助をぶやして西独企業の利益に奉仕しているというのだった。政府ははっきりと「ドイツの雇用創出に貢献する援助」という方針に転換していた。失業が問題になっているなかで、一般国民の間には支持する声もあったが、援助に関わっているNGOの人々などは政府と企業の癒着をヤリ玉にあげた。なかでもシーメンス社がパキスタンの電信電話システム援助について経済協力大臣にあてだ感謝の手紙が緑の党によって暴露され、「援助が第三世界のためというのはウソだ」ということを国民に印象づけた。

このとき政府が防戦するのに引き合いに出しだのは日本であった。「日本など他国の政府も自国企業の利益を考えて援助している。それはわ、か国の失業者対策にもなる」と国益論を展開して譲らなかったというのだ。「率直に言って。バングラデシュだけでなく、各国で日本の援助の評判はよくない。技術をちゃんと移転しないで、部品がこわれたりすると、日本しか修理できないようにして従属させてしまうとか、経済優先があまりにも露骨過ぎるからだ。

これは周知の事実で、私か西ドイツ政府を追及すると、日本ほどは悪くないと弁解する始末です」とハルラーさんは苦笑しか。そして、「日本だけでない。どこの政府の援助も、結局は、北が南を搾取する新植民地主義の一つの形態です。援助が南北問題解決の一助になるなどというのは幻想。腐敗の構造を変える闘争が必要だと思います」と結んだ。

友好で商売は出来ない

七〇~八〇年代は政治の社会でも、経済の面でも友好という言葉が中国側から多く聞かれ、日本側も頻繁にその言葉を使用した。しかし、私にすれば、相手側の意向に合わない時は、非友好的であると言われ、友好的に話を進められたということは相手の意向に合った時のみであった。悔しい思いをいつもしていたので、いつかこちらから使用しようと思っても中々そういうチャンスにめぐり合えない。時はくだり、八〇年代も後半になった。北京において中国側の輸入会社の招待会があった。特に用事はなかったが、参加してみることにした。商談の担当者も大分若返っていた。同じテーブルに知った顔がいたので彼と話をしたが、今後は日中友好の関係を両国が更に深め、貿易量も増やしてゆく必要があることを当方が述べたところ、その若い担当者からは耳を疑うような発言を聞いた。

「友好だけで商売は出来ないよ」時代が変われば変るものである。考えてみれば当然のことであるが、従来が従来であるので、不思議に思った記憶が残る。中国も確実に変化している。前著で天安門広場の毛沢束の絵をさして「偉い人」と言ったカラオケの女の子のことを書いたが、中国が普通の国になりつつあることを実感した。カラーテレビが映らない「大会社」ということを前項で触れたが、私の会社もつくづく大会社だなを実感したことがある。一九八〇年代の中ごろのことだ。北京から列車に乗り、長沙まで夜行列車で行った。冷蔵庫の製造設備の商談だ。この商談は結局実らなかったが、そこで顧客から私の会社のテレビが故障していると言うことをその地区の電子関係の担当者から聞いた。私か来ているというのをどこかで聞きつけてきたのだ。私は、テレビの組み立てラインの販売もしていたので、テレビの修理は出来ないが、とにかくクレームというので、映らないテレビを見ることにした。

新品のテレビである。良くある例が、日本から日本仕様のテレビをお土産で買ってきて、中国で映らないという例を聞いていたのでその類かと思った。(日本はアメリカと同じNTSC方式。中国はPAL方式、今は日本でも輸出用は両方映るようになっている。)しかし、話を聞いてみると、画面が出て映ることは映るのである。ただ、画面が途切れたりする。一緒に行った電気関係の技術者と調べてみると、結局はそのテレビに電圧安定器が回路に入っていない。電圧の変動に耐えられないのだ。中国の田舎では当時、電圧が絶えず変動していた。テレビそのものには問題はなく、電圧安定器が含まれていないことを指摘して、購入する際に確認すべきだということを伝えた。ところが、テレビを買った顧客と電子関係の担当役人は怒り出した。

私たちは、貴社のテレビということで購入した。他の日本のテレビは貴社みたいなことはなく、きちんと映る。中国では国家がまとめて購入して各地に分配する。貴社みたいな大きな会社は入れ替わり立ち代り人が来て中国がどんな状態であるか知っているはずだ。電圧変動は中国の田舎では頻繁に起こることだ。何故最初から地方にまで販売されることを想定して電圧安定器を回路に入れて販売しないのだ、ということであった。実際、それは北京の購入窓口の問題であると私は思ったのだが、それを□にしてもこのテレビを購入した個人にとっては、映るか映らないかの問題であって、北京がどんな交渉をしているかは関係ない。確かに他社のテレビは、会社としてよく中国を知っていて、必要なものにはそれなりの対処を施してあった。価格は若干高くても、何処で使用されるか分からないものにはそれなりの配慮がされている。

私は、自分で修理するとも無償交換するとも全体の影響を考えると簡単に回答できないので、その地区の担当員に連絡をして対処することのみを約束して、その場を離れたが、私自身は、各営業部の考え方があるにしても、もし地方でも商品を販売したければ、それなりの対処をして販売すべきと思った。確かに当社は大きくて、ある事業部の営業マンや技術者が知りえた情報が必ずしも全社に伝わっていないという事実も知っていた。つまり偶々担当した当人の知識で終わってしまっている。会社内の組織が縦割りになっている。このテレビも、国家中央と交渉した営業マンが、まさか電圧変動が地方によっては一〇%以上動くとは考えても見なかった可能性がある。知っていても、相手が要求しなかったからそのままにした可能性もあるし、価格が合わなく中国側の商談をする人が、現状のままを受け入れたのかも知れない。

カザフスタンに次ぐエネルギー資源大国

ウズベキスタンとは異なり、上海協力機構の○五年の米軍撤退期限の設定という決定にもかかわらず、基地使用料の大幅値上げと引き換えに米軍の駐留継続を認めた。○九年には米軍の撤退を公式に求めたが、アメリカとの協議の結果、非軍事物資運搬という名目で米軍の基地使用を受け入れている。一方では同時期にロシア軍の南部オシヘの配備も認めている。いずれも経済援助がその背景にあるのだが、小国としてのぎりぎりの国益外交展開とも言える。トルクメニスタンー中立政策と天然ガス外交。世界有数の天然ガス大国であるトルクメニスタンは、国連総会で「永世中立国」の地位を承認されて、独自の外交を展開し、資源大国としての存在感を強めている。

トルクメニスタンは独立後の憲法で自国を「中立国」と規定し、一九九五年の国連総会で「永世中立国」の地位が承認されている。ロシアなど外国からの介入・干渉を極力避けるためだったが、当時のニャゾフ大統領の個人独裁を擁護する意味合いももっていた。具体的には「積極的中立」の外交方針を掲げて、軍事ブロックや同盟、地域機構への参加を拒否している。ロシアとの経済関係は強いものの、ロシア主導の統合には否定的であり、当初はCIS加盟国であったが、○五年には「オブザーバー国」になっている。他の中央アジア各国が参加している集団安保条約機構、ユ上フシア経済共同体にも加盟せず、上海協力機構にも不参加である。

だが、中央アジア非核地帯条約には他の中央アジア各国とともに積極的に加わっている。ただ、この「中立」外交は完全なものではない。ロシア、カザフスタンとの三力国カスピ海合同艦隊には加わり、NATOとの「平和のためのパートナーシップ」協定には調印している。さらにアメリカのアフガニスタン戦争では米軍の常駐は拒んだものの、米軍の上空通過や「人道支援」協力は容認している。カスピ海に面するトルクメニスタンは天然ガスの確認埋蔵量が二四兆立方メートルと世界第四位で、石油も含めて中央アジアではカザフスタンに次ぐエネルギー資源大国である。天然ガスの年間生産は○七年に六七四億立方メートルで、ウズベキスタンと肩を並べ、カザフスタンのほぼ二倍だ。石油は少ないが、○六年には年間一〇〇〇万トンを超え、一〇年には年間六〇〇〇万トンと飛躍的に増産したいとしている。

トルクメニスタンの輸出は総額の五〇%が天然ガス、三〇%が石油でエネルギー資源が八〇%も占めており、典型的な資源供給国の構図だ。輸入は食料、日用品、機械類が大半で、貿易収支は約三五億ドル(二〇〇六年)の黒字になっている。この天然ガスのほとんどはこれまで、ロシアにパイプラインで輸出され、ウクライナと同国経由でEU各国に輸出されていた。ガスプロムは○四年、二五年間に二兆立方メートルを輸入する長期契約を締結、その後、トルクメニスタンの強い要求を受けて輸出単価を従来の一〇〇立方メートル当たり七〇ドルから一〇〇ドルに引き上げている。

トルクメニスタンは過度なロシア依存を避けるために、天然ガス輸出を多角化する方針をとっている・中国へのパイプラインが○九年に開通し、年間四〇〇億立方メートルを輸出することになった。隣国アフガニスタン経由でパキスタンに至るパイプライン建設も○二年に合意されている。(タリバッの台頭で建設開始は不透明。)南の隣国イラン北部へのパイプラインも開通し、EUとはロシアを迂回して南欧に至るパイプライン建設を協議中だ。独立以来、特異な個人崇拝体制を築いてきたニャゾフ大統領が○六年に急死し、ベルディムハメドフ新大統領が就任したが、内外政策に今のところ大きな変更はない。ニャゾフは終身大統領になり、各都市に自分の巨大な銅像を建て、自分の著書『ルフナマ(魂の書)』を学校や職場で必読文献とし、自らをトルクメンバシ(トルクメニスタンの領袖)と国民に呼ばせてきた。当時、トルクメニスタンは「中央アジアの北朝鮮」とさえ言われたほどである。

農業戸籍に戻ろうとする都市の大卒生

これまで虐げられた農民エの話に焦点を絞ってきたが、農民の中にはチャンスをつかんで富を蓄えた者もかなりおり、田舎に豪勢なマイホームを建てた者も少なくない。中国は広く人口が多いから、リッチな八〇后がいたり就職難にあえぐ蟻族がいたりするように、農民にもさまざまな状況がある。しかし農民たちが「誇り」と「自尊心」を持てなかったということに関しては共通のものがあっただろう。それが刺激されたということは、中国が改革開放を成し遂げたのと同じ程度の効果を持つだろうと私は思うのである。新中国が誕生してから一〇年ほど後の一九五八年。都市に住む人民と農村に住む人民を完全に分け隔てる戸口条例ができてからというもの、農業戸籍の家で生まれた子供は、永遠に農業戸籍として生きていかねばならなかった。いや、「人民」として生きていけるならまだいい。非農業戸口(都市戸籍)が都市で受けることのできるもろもろの社会保障は一切受けることができず、結果、「人民」として平等に扱われたことがない。

新中国、中華人民共和国が誕生するための革命戦争において、毛沢東は牛馬のようにこき使われ、生涯結婚することさえできなかったような農奴たちを啓蒙して革命に参加させ、血なまぐさい地主との戦いに彼らを駆り立て、革命に成功したという歴史を持つ。だから新中国誕生後、農民は革命の主人公として讃えられたのだったが、その期間は一〇年にも満たなかった。改革開放が進み始めた一九八〇年以降は、都市に出稼ぎに出た農民は「農民エ」として再び農奴のような生活に追いやられる。医療保障も老後保障もなく、都市で子女を学校に通わせるには「借読費」(あなたの都市の教育の場を借りますね、という経費)を払わなければならない。それでも、農民の子が唯一、都市戸籍を持つことのできる手段があった。それは都市の大学に入学することである。昔は国家培養と言って国が全ての教育費を負担し、学生は全員大学の寮に入って共同生活を行い、その大学を管轄する国営企業のサイクルの中に組み込まれていたので、大学に入学すれば、その大学が所在する地域の戸籍をもらうことができたのである。卒業後も、大学が分配する職場の所在地の戸籍を与えてもらえる。

だから、村から都市の大学に合格するような者が現われると、村では祭のような大騒動。銅鋼や太鼓の鳴り物入りで、村人全員が祝福し、親は鼻高々であった。他の親は、自分の子供に「あの子のようになりなさい」と説教して、村の模範となったものだ。それが今では、大学を出ても就職先がない。むしろ、村で、その模範生を見習わなかったような子供が中学もろくろく出ずに、ブルーカラーとして都市の建築現場で働いている。大学に行かなかった者の方が職があり、しかもそれなりの賃金で働いているとなると。何のために都市戸籍を、あそこまで渇望したのか、ということになる。そんな現象が出てから数年経つが、今ここに来て、「非転農」という現象が潮流の一つとなり始めた。

「非転農」とは、「非農業戸口から農業戸口に転じる」という意味である。大学を卒業したら、誰もが都市戸籍を失うまいと、必死で都市にある企業に就職できる道を模索したのだったが、なんと、卒業と同時に、昔の「農業戸口」に戻りたいと、役所に長蛇の列ができるというほどの熱気なのだ。それは、中国政府が農民ど都市住民との格差に危険を感じ、農民に都市住民にはない優遇策を次々に講じ始めたからである。前述したように、税金制度や医療制度、そして養老福祉方面に関しても、さまざまな改善がなされるようになったが、それ以外にも「土地分紅」というメリットもある。これは、たとえば住宅建設やその他の開発のために国や企業が農民から上地の使用権を買ったりするが、その際に得られる代金のことを指す。都市のようにマンション群の中の一室という形で住宅を買うだけで、そのマンションが建っている土地に関しては共同で借地権を持っているだけ、というのと違い、農村では土地そのものが「使用権」ではあっても売買される。

但し、この「土地使用権」に関しては改革解放後も実は紆余曲折があった。改革開放が始まった初期のころは、それまでの人民公社という非効率的な集団農業経営をやめ、各農家の家庭が個別に土地の請負権(中国語では承包責任制)と使用権および収益権を与えられるという、非常に恵まれた状況が生まれた。ところが、一九八〇年代後半、特に鄙小平の南巡講話があった九二年以降からは、大都市およびその近郊の農村を中心として急激な都市化や工業化が進んだために、それぞれの地方人民政府が利益を上げようとして不動産業者等と結託し強引な都市開発を始め、請負制で個別の農家に使わせていた土地を再び集団化して結果的に農民から土地を取り上げるようになった。こうして強制的に土地を奪われた農民を「失地農民」というが、その数は四千万から五千万とされている。

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